ワッフルと宝塚のブログ

宝塚がある世界に乾杯

上田久美子先生の波紋を呼んだ記事について


 退団してもなお、たったひとつの記事で波紋を呼ぶ演出家。上田久美子先生はいつだって話題になる方だなあと思います。


 話題になっている理由は先日、『「推し」でなく中身で問う演劇 宝塚を離れた演出家が向かう先』という上田先生の記事が朝日記事デジタルに掲載されたからです。


 このインタビュー内容で、宝塚ファンさまざま思ったことがあったようで、たくさんの方が上田先生のインタビューに対し意見や感想を述べていらっしゃいます。

 こうやって舞台に対して活発に議論されるだけでもこの一石には価値があるんじゃないかと個人的には思うわけですが。


 ざっくりとした記事の内容は、「海外の観客と日本の観客の見方の違い」があることについて、です。


 目当てのスターがいなくても演劇を観に行くこと事態が一般的な海外に対し、「日本は公演の内容を見るより、舞台というものがスターに会いに行く推し活の場」になっていて、芸を見せていたはずの場所が人間関係を消費する場になっている。上田先生はそれに抵抗したい。


 簡略すると記事の前半はこんな感じでしたが、インタビュー記事は全文読まずに切り抜いた箇所だけ読むと違う捉え方になるので気になる方はぜひ全文をお読みいただきたいです。


 さて、「公演の内容より、スターに会いに舞台を観に行っているということを決めつけられているかのように読み取れる」記事内容について活発な議論が見受けられるのですが。


 これは上田久美子さんというひとりの人間の考え方や問題提起であって、それを全員が全員受け入れる必要も共感する必要も「現状は間違っている」 と思い込む必要もないのですが、この記事が波紋を呼んだのは単に、①宝塚ファンの多くが「悲しかったから」 だと思います。(もうひとつは人と芸術は切り離せない問題だと思うのですがそれは②として後から記します)



 「スターさんが好きというのを差し引いても上田先生の演出する舞台で感動した人たち」が、「まるで中身を見ていない」と思われていたことが悲しかった。というのが今回の波紋を呼んだ理由のひとつだと思われます。

 特に上田先生の作品は「スター」や「推し」が出ていなくても「物語」そのものに胸打たれている人が多く見受けられました。


 ですが今回の記事で「贔屓のスターがいるから宝塚を観に行く人たち」はイコール「物語の質はどうでもいい人たち」だと一括りに捉えられているような気がして、「それは違う」という声が大きくなり、活発な議論が交わされているように感じます。



 わたしは「スターを観ること」と「物語を楽しむこと」は当たり前に両立できることだと思っているので、上田先生の極端な意見に共感はしないけれどその感覚に理解できるところもありました。実際問題、どれだけ話がつまらなくても贔屓が出ていたら通う、それが宝塚の世界だからです。


 ですが、贔屓を見ることが大前提だとしても、宝塚を好きな人の中には話の内容をしっかり観る人・味わう人も多いです。だから、「日本の観客はスターだけ観ていて作品には興味ない」というニュアンスが悲しく、波紋を呼んだのだと思われます。



 と、今回の記事を宝塚ファンの観点から読むと確かに上記のようなものになります。



 しかしながら、今回の記事で確かにスター主義についての話はされていましたが、そこに読者が引っかかるのも分かるのですが、個人的には、宝塚ファンどうのこうのや、日本の観客が推しにしか興味ないということよりも、「日本は国として芸術の後押しが弱いこと」 や、「芸術に関わる者として、推しという需要にだけ甘んじた作品をつくってはいけない」という上田先生の芸術への愛を感じるインタビューだと感じました。


 上田先生の作品って、いつも「考えることをやめるな」「現実から目を逸らすな」「楽な方へ逃げるな!」という熱いメッセージが込められていたように思います。


 こんな熱いメッセージを心に宿している上田先生は、日本の演劇について「人気のなにかにあやかっているだけではいけないのだ」「推しがいなくても舞台を観にいくような文化を日本にも根付かせたいのだ」という無垢な夢をこれから先も追いかけ続けたい、まさに「芸術を愛する人」だと思います。


 また、今回決めつけのような極端なインタビュー記事内容になっているのは、それくらい極端に鋭く表現しないと、上田先生が思う日本の舞台で目指す本質の話をインタビュー後半で出来ないからだと思うので、この言葉足らずな極端な意見のみが上田先生の本心ではないとも思われます。



 そして②に対しての問題。「推しがいなくても舞台を観にいくような文化を日本にも根付かせたい」という気持ちを表現するために前半の記事で推し活の話をされたのだと思います。そして極端な話を貫いたのだと思います。


 舞台は人の肉体や声を通さないと完成しない芸術のため、いくら推しがいなくてもそこで感動してしまえばその出演者の誰かを何かを推してしまいまたその人の舞台を観たいと思ってしまう可能性があります。

 「芸術」と「人」は切っても切り離せないのだから、舞台を見る限り推しが生まれる可能性はあるがそれを目的に舞台観劇に行くことは究極間違っているのか? という「鶏が先か、卵が先か」問題にまで発展しそうな波紋。


 そうなんですよね。どれだけ崇高なことを口にしても「芸」と「人」は切っても切り離せないですし、そんなことは上田先生も百も承知のはずですが、上田先生は不純物ゼロで作品を感じてほしいんだと思います。


 今回のインタビューで「好きな役者が文脈なく死んだら泣く観客」に上田先生は引っ掛かりをもたれます。それはまさに、「舞台以外から持ち込んだ感情で泣くな!」という上田先生の舞台に対するスパルタのスタンスから起こるものだと思います。


 上田先生は恐らく、舞台を愛するあまりご自身にも演者にも観客にさえスパルタな思考を持っていて、これは推測なのですが「自分にファンがつくのも良しとしないタイプ」なのかなと思いました。


 宝塚は手紙文化で、 贔屓に送るように演出家の先生にも手紙を送られる方々もたくさんいらっしゃいます。
 おそらく上田先生はたくさんの手紙を受け取りながらも、自分についたファンの方々に「上田先生の作品だから」と全肯定されるのがイヤで、個々の作品をまっさらな不純物ゼロ感覚で評価して欲しいという武士のような心意気があるんじゃないかなと感じました。


 以上はわたしが勝手に受け取った考えですし、上田先生の発言に対して今回のように考えること自体がすでに 「消費」でもあるので、ここまで記しながら申し訳なくなってきているのですが、今回のインタビューは、芸術を愛している上田久美子さんだからこそのインタビュー内容だな、と受け取りました。



 まあどんな記事を受け取ったところで、スター制度の中でつくりあげてくださった『金色の砂漠』や『星逢一夜』、『BADDY』や『桜嵐記』という作品がわたしの胸打った大好きな作品であることに変わりはないですし、この「好き」という感情は誰が何と言おうと私だけの大切な感情なので、これからも大切にしていきたいなと感じました。


 長らく記してしまいましたが、上田先生のつくる作品にはこれからも興味のある人間なので、これからもその感性に触れさせ続けてほしいです。


 今回の上田先生のインタビューでいろいろ考えることがある人もいると思うのですが、どうかご自身が持つ「好き」の感情だけは皆様が迷わず大切に出来ますことを心の底より願っています。



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